最近、ささいな動機でダンテの「俗語論」を読みたいと思ったのですが、調べてみるとこの本、邦訳がほとんど出ていないんですね。調べた限り、岩倉具忠(いわくらともただ)という人(あの岩倉具視の子孫らしいです)の訳註で1998年に出た「ダンテ 俗語詩論」という一冊だけ。古本でも1万円超。まじめに文学をやっている方には叱られそうですが、ちょっと調べものをしたいだけの私としては、ハードルが高いです。もちろん、ラテン語で書かれた原文は私には読めません。
それで思いついたのがAIでの翻訳です。AIもいろいろあるみたいですが、一番有名なChatGPT、それから話題沸騰中のDeepSeek、この二つを試して比べて良さそうな方を選べれば、私の目的には十分な訳文が得られるかも知れません。
という訳で、早速やってみました。まずは肝心の原文テキストですが、これはWikisourceの下記サイトから入手しました。
次はどんなふうにAIに質問するか、です。単に「これこれを翻訳せよ」でも問題はないのだろうけど、こんな質問文を作りました。ちょっと馬鹿丁寧だったかも知れませんが。
▼クリックで表示【AIへの質問文】
「下に示すアルファベットの文は、イタリアの詩人ダンテが著した『俗語論』の一部です。この文で使用されている言語は基本的にラテン語ですが、部分的にイタリア語が使われているかも知れません。このアルファベットの文を、日本語の文に翻訳して下さい。また、その要約も作成して下さい。
『(原文をコピペ)』」
ところで、「俗語論」は本来は全4巻からなるところが、2巻の14章で断絶してしまっている、とのことです。今回は、冒頭つまり1巻の1章を試すことにしました。原文は次のとおりで、これを上記質問文にコピペしてAIに質問しました。
▼クリックで表示【原文(第1巻 第1章)】
「LIBER PRIMUS.
Caput I.
Quod sit Vulgaris locutio, et quo differat a Grammatica.
Cum neminem ante nos de Vulgaris Eloquentiæ doctrina quicquam inveniamus tractasse, atque talem, scilicet Eloquentiam, penitus omnibus necessariam videamus (cum ad eam non tantum viri, sed etiam mulieres, et parvuli nitantur, in quantum Natura permittit), volentes discretionem aliqualiter lucidare illorum, qui tanquam cæci ambulant per plateas, plerumque anteriora posteriora putantes; Verbo aspirante de Cælis, locutioni vulgarium gentium prodesse tentabimus, non solum aquam nostri ingenii ad tantum poculum haurientes, sed accipiendo vel compilando ab aliis, potiora miscentes, ut exinde potionare possimus dulcissimum hydromellum. Sed quia unamquamque doctrinam oportet non probare, sed suum aperire subjectum, ut sciatur quid sit, super quod illa versatur, dicimus celeriter expedientes, quod Vulgarem locutionem appellamus eam, qua infantes adsuefiunt ab adsistentibus, cum primitus distinguere voces incipiunt: vel quod brevius dici potest, Vulgarem locutionem asserimus, quam sine omni regula, nutricem imitantes, accipimus. Est et inde alia locutio secundaria nobis, quam Romani Grammaticam vocaverunt. Hanc quidem secundariam Græci habent, et alii, sed non omnes. Ad habitum vero hujus pauci perveniunt, quia non nisi per spatium temporis et studii assiduitatem regulamur, et doctrinamur in illa. Harum quoque duarum nobilior est Vulgaris, tum quia prima fuit humano Generi usitata, tum quia totus orbis ipsa perfruitur, licet in diversas prolationes et vocabula sit divisa; tum quia naturalis est nobis, cum illa potius artificialis existat; et de hac nobiliori nostra est intentio pertractare.」
以上の質問に対するAIの回答ですが、出てきた翻訳と要約は次のようなものでした。
▼クリックで表示【ChatGPTによる回答】
「翻訳
第1巻
第1章
俗語とは何か、それが文法とどのように異なるかについて
私たちの前に、俗語の雄弁術について何も論じた者はいませんし、またそのような雄弁術が、つまり俗語がすべての人にとって非常に必要であると見なされるべきだと考えています(これは、男性だけでなく、女性や子供さえも、自然の許す限りそれに努めていることからも明らかです)。私たちは、盲目のように街を歩き、しばしば前と後を混同する人々の理解をある程度明確にしようとしています。天からの言葉が霊感をもたらすように、私たちは、俗語の言語が一般の人々に役立つように努力します。それは私たち自身の思考の水をその大きな杯に注ぐことだけでなく、他者から得たものを取り入れ、より優れたものを混ぜ合わせることで、最終的には最も甘美な蜂蜜水を味わうことを目指すのです。しかし、どんな学問でもまず証明するのではなく、その対象を明らかにすることが求められるため、私たちは早急に、俗語とは何かを明らかにします。それは、赤ちゃんが最初に声を区別し始める時に、周りの人々から習得する言葉を指します。また、言い換えれば、俗語とは、規則なしに、母親の模倣を通じて習得する言語であると言えるでしょう。これとは別に、ローマ人が文法と呼んだ言語があります。ギリシャ人をはじめ他の人々もこのような言語を持っていますが、すべての人々が持っているわけではありません。この言語に習熟するには、時間と努力が必要であり、そのためには継続的な学習と訓練が求められます。とはいえ、この2つのうち、俗語の方が優れているのは、まず第一にそれが人類にとって最初に使われた言葉であり、第二にそれが世界全体で使用されていること、そして第三にそれが私たちにとって自然であるのに対し、文法的な言語は人工的であるからです。この高貴な俗語について、私たちはここで詳しく議論しようと考えています。
要約
この文は、ダンテが「俗語論」の中で、俗語の重要性とそれが文法とどう異なるかについて説明している部分です。ダンテは、俗語が人類全体にとって自然で必要な言語であり、最初に習得される言語であることを強調しています。赤ちゃんが最初に言葉を覚える過程と、それが自然に身につく様子に例えて、俗語の重要性を述べています。また、俗語は規則に基づく学問的な言語(文法)とは異なり、自然に使われ、広く世界中で使われているため、俗語の方が優れていると考えています。」
▼クリックで表示【DeepSeekによる回答】
「翻訳
第一巻
第一章
俗語とは何か、そしてそれが文法語とどう異なるか。
私たち以前に誰も俗語の修辞学について論じた者がいないことを発見し、またそのような修辞学がすべての人々に深く必要とされていることを見て(なぜなら、男性だけでなく女性や子供たちも、自然が許す限りそれを目指しているから)、私たちは、まるで盲人が通りを歩き、しばしば前を後ろと思い込んでいるような人々の区別を少しでも明らかにしたいと考え、天からの霊感を受けて、俗語の話し言葉に貢献しようと試みます。私たちは、自分の才能の水をそのような杯に注ぐだけでなく、他の人々からより優れたものを取り入れ、あるいは編集して混ぜ合わせ、そこから最も甘い蜂蜜水を醸し出すことができるようにします。しかし、すべての学問はそれを証明するのではなく、その主題を明らかにするべきであり、それによってその学問が何について論じているのかがわかるようにするべきです。そこで、私たちは迅速に説明します。俗語とは、幼児が周囲の人々から学ぶ言葉であり、最初に声を区別し始める時に使う言葉です。あるいは、より簡潔に言えば、私たちは、何の規則もなく、乳母を真似て学ぶ言葉を俗語と呼びます。また、私たちには第二の言葉があり、ローマ人はそれを文法語と呼びました。この第二の言葉はギリシャ人や他の人々も持っていますが、すべての人々が持っているわけではありません。実際、この言葉を習得するには、時間をかけて継続的に学び、その規則や教えを学ぶ必要があるため、それを習得する人は少ないです。この二つの言葉のうち、俗語の方がより高貴です。なぜなら、それは人類が最初に使った言葉であり、また全世界がそれを使っているからです。ただし、発音や語彙は地域によって異なります。さらに、俗語は私たちにとって自然なものであり、文法語は人工的なものだからです。そして、私たちの意図はこのより高貴な言葉について論じることです。
要約
ダンテは、俗語(日常的に使われる言葉)と文法語(学問的な言葉)の違いについて論じています。俗語は、幼児が自然に学ぶ言葉であり、すべての人々に必要とされています。一方、文法語は学問を通じて習得されるもので、習得する人は限られています。ダンテは、俗語の方がより自然で普遍的であるため、より高貴であると主張し、その重要性を強調しています。彼は、俗語の修辞学について論じることで、人々がより明確に言葉を使えるようにすることを目指しています。」
さて、ここまで来て、「Google翻訳はどうなの?」と、素朴に思いました(Geminiでなく、ふつうのGoogle翻訳のほう)。なので、ついでにこれもやってみました。ただし、こちらはもちろん翻訳のみで要約はありません。
▼クリックで表示【Googleによる翻訳】
「第一章
下品な表現とは何ですか、文法との違いは何ですか。
なぜなら、私たちの前には、俗悪な雄弁の教義をまったく扱った人がいないことがわかり、そのようなもの、つまり雄弁がすべての人にとって絶対に必要であることがわかります(男性だけでなく、女性や子供もそれを目指して努力しているからです)自然が許す限り)、盲目であるかのように通りを歩き、一般的に前方と後方を間違えている彼らの思慮分別を何らかの方法で啓発したいと考えています。カイリスの意欲的な言葉で、私たちは自分自身の天才の水を一杯のコップに汲むだけでなく、他の人から受け取ったり編集したりして、より良いものを混ぜることによって、一般の人々の言語に利益をもたらすよう努めます。そこから最も甘いミードを飲みます。しかし、それぞれの教義を証明するのではなく、その主題を明らかにして、それが何に基づいて展開しているのかを知ることが必要であるため、私たちはそれを俗語と呼んでおり、幼児が理解しているものであるため、私たちはすぐに方便と言います。傍観者が最初に声を区別し始めるとき、つまり、もっと簡単に言うと、私たちは看護師の真似をするという、何の規則もなくそれを採用する共通の表現を主張します。したがって、私たちにとって別の二次的な表現があり、ローマ人はそれを文法と呼びました。ギリシャ人にはこれが二次的であり、その他もありますが、すべてではありません。しかし、このような態度に達する人はほとんどいません。なぜなら、私たちは一定の期間と継続的な学習によってのみ規定され、その中で教えられるからです。これら 2 つのうちでも、ブルガリス語の方が高貴です。これは、人類が最初に使用した言語であることと、異なる発音や用語に分かれているものの、世界中で楽しまれているという理由の両方からです。また、それは私たちにとって自然なものですが、むしろ人工的に存在するものだからです。そしてこの問題について議論することが私たちの崇高な意図です。」
どうですか。一読した印象として、Googleの訳文は残念と言わざるを得ませんが、ChatGPTとDeepSeekの方はどちらも意味が通るし十分に自然、と私には思えます。後の二者の優劣はさておき、訳文の自然さで見る限り、これならAIの助けを借りて「俗語論」の全文も読めそうだな、というのが私の結論です。